今思うと、中毒だった。

2010年12月24日

以前まで珈琲をしこたま飲んでいた。

インスタントだけで1日5杯、以上。

常にタンブラーは持ち歩き。

将来、喫茶店がしたいと本気で思っていた。


それが何故かピタッと飲めなくなってしまった。

飲もうと思わないし

ふいに出されて飲んだら気分が悪くなっていた。

これじゃ、喫茶店はムリだ。

たとえまた飲み始めても

飲めなくなるかもしれないから

波があって困るだろう、と思った。

「私の夢」ボードに書いたばかりの4月だった。




今月に入って、匂いにつられて

ふと飲んでみたくなって

忘れた頃に飲んでいる。

また飲めるようになった。

別の理由かもしれないけど

今は、胃が痛い。

大した頻度でもないのに…。



振り返ってみると

以前までは中毒だった。

美味しいから飲むのだけど

飲まないと落ちつかない、

飲まずにはいられなかった。

自分には中毒はないと思っていた。




小さい頃から両親が喫茶店によく

連れて行ってくれていた環境もあったし、

珈琲を飲む大人なスタイルに憧れもあったし、

喫茶店をきりもりする女性になりたかった。



それぞれが自営する両親のもとで育って

両親に憧れがあった。

カッコよかった。



趣味が仕事になれば、それが一番いいと

思っていた。それは今でもそうかもしれない。

現実は、必然から興味がわいて仕事になって

仕事自体が趣味になっている…と言い切れる。

今となってはリハは私にとって

体の一部になっている。



認めてよそ見はやめよう。

ゆとりと、逃げや憧れは違うのだし。

今は組織の中に

十分なやりがいも感じているのだし。

自分しかできないこともあると気づいてきているのだし。



単純に人と違うことがしたい。

人と違う道を行きたい。

逸脱する勇気のなさの反面、組織内での存在の仕方に自信にもついてきている。

逸脱することが自分の望みかどうかを見つめなおす隙間もないことが

辛さではあるけれど

逸脱するためのトレーニングでもあるような気もする。



要は、将来は何が起こるか分からない。

勝手な予測は「ゆるがない願望」ならいいのだけれど

自分が向いているかどうかや、憧れから脱しないのなら

単なる夢物語。止めたほうがいい。

と思えてきた。




占いで「そうなるでしょう。だから大丈夫。」的な安心を得たり

確実な人を追い求めて「先」という結末だけを聞いて

足元を見ようとしなかったり、自分自身を見ようとせず

人に見せようともせず、先走ったり。

そのくせ変わろうと意気込んだり。

環境のせいにしたり。

正論ぽい、言い訳をしたり。

全ては同じパターン。

これが私。

これも私。




こうやって、後で気づくこともあるんだと。

やりながら、分かることもあるんだと。



さも、最初からなんでも分かって、知ってて歩いているスタイルは

もういらない。



このエネルギーを

全部自分に向けられたら

いいだろうなと、これを「ゆるがない願望」になれるよう

今は少し、エネルギーをチャージしたい。




私にとって自分探しは

自分の本音探し。





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Posted by 花梨 at 00:11│Comments(0)体のこと
 
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